フィギュアスケート版「女工哀史」ワリエワ騒動に見るロシアという国の強さと徒労の美【宝泉薫】
また、フィギュア界にとってもエテリのチームはその盛り上がりにひと役買っている。競技のレベルを高め、その世界一を決める戦いに屈折した面白さをもたらしたからだ。スポーツではそもそも、トップレベルに行けば行くほど、ケガや病気のリスクも増え、健全さからは遠ざかる。そんな病的なまでの戦いに心身を捧げる姿が、いかに人を興奮させ、感動させるか。スポーツと健全さとの両立を期待するのもよいが、五輪は学校の運動会ではない。これくらいじゃないとわざわざやる必要はないとすら思うほどだ。
なんにせよ、ロシアは批判に耳を傾ける気配はない。それは外交におけるウクライナ問題にも通じる姿勢だ。五輪でも外交でも、国際世論や他国の言いがかりに忖度しまくりの日本は見習いたいところでもある。
そんな面の皮の厚いロシアだからこそ、エテリのような女傑も活躍できるのだろう。まったくもってすごい国だ。
しかし、こんな国と戦争をして、勝った国もある。日本だ。ロシアは前々身のロシア帝国、こちらは前身の大日本帝国の時代。ただ、当時の日本はロシア的な姿勢もとることができた。個人よりも国を優先させるやり方である。
たとえば、日露戦争の莫大な戦費をまかなったものに、生糸がある。全国の製糸場で若い女性たちが紡ぎ出すこの輸出品が、戦争を支えたのだ。その労働条件は「女工哀史」や「あゝ野麦峠」に書かれたようにけっして良好ではなく、結核で命を落とす者も多くいた。ただ、働きたい少女も大勢いたから、代わりはいくらでも補充できたわけだ。
また、戦場にも兵士の命を惜しまず投入できた。世界史上有数の激戦をもたらした旅順攻略も、たくさんの屍の上に成ったといえる。
そういえば、エテリのやり方について、知人から興味深い指摘をされた。少女の一途な心性を利用しているところが、第二次世界大戦終盤の日本軍が少年の燃えやすい心性を特攻隊にとりいれたところに似ているのでは、というものだ。これは卓見だろう。
同様に、エテリ門下における選手寿命の短さからは、フィギュア版「女工哀史」のような印象も受ける。この指導者は練習リンクを「工場」選手を「原材料」にたとえたりしているが、ある意味、フィギュアに憧れ、次々と現れる生身の少女を加工して最高級かつ新鮮な輸出品を作り続けているわけだ。
ただ、フィギュアの問題には似て非なるところもある。ロシアならではの芸術至上主義的な伝統も関係しているからだ。国立のバレエ学校などでも、少女たちが厳しい練習や食事制限、仲間内でのトラブルなどに堪えながら一流のバレリーナを目指している。
その実態を描いた傑作ドキュメントのタイトルは「犠牲の先に夢がある」(2008年・デンマーク)。夢をつかめるのはほんのひと握りだが、それでも心身の犠牲を避けていてはたどりつける可能性すらない。エテリの生徒たちもそういう積極果敢な思いで夢をつかもうとしているのだろう。
今回の五輪で夢をつかみとったのは、シェルバコワ。健康が心配されるほどの体型については、もともと痩せ型の子供が、さらに節制をしていくことで達成されたもののように感じる。というのも、エテリチームの振付師が「海老ふたつ食べるだけで満腹になる」と彼女の少食を賞賛したりしているからだ。
そうやって絞り込んだ体を活かしきり、金メダルへとつなげたフリーの演技は極限的な美しさだった。それに負けず劣らず、ワリエワがフリーで失敗した演技も印象的だ。着氷に失敗するたび、夢が砕け散っていくように見えた。多大な犠牲を払ってもなお、つかみきれなかった夢の残骸。あれほど、徒労の美というものを体現したものはなく、今も脳裏に焼きついている。
フィギュア女子という競技はやはり、冬季五輪の花というほかない。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)
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